テムジン及びチンギスハーンがモンゴル国家を統一し、支配した領土は東方ハルハ川(現在のモンゴルの東の国境)、西方イルティシュ川(現在のカザフスタン)、南方万里の長城以北、北方バイカル湖に到るまでであった。カラコルム市はチンギスハーンの法令によりオルホン渓谷に1220に確立されている。1220年から1260年の間はモンゴル帝国の行政、貿易、工芸、文化の中心だった上で東と西を繋いでいたシルクロードの十字路でした。
この間のカラコルム市はアジア・ヨーロッパ、アラブの旅人、官吏、高官、科学者たちを呼び集め世界の文化を結び付ける大首都としての役割を果たしていたものである。その1つの例は、世界三大宗教である仏教、キリスト教、イスラム教の宣教師たちが首都においてそれぞれの活動を行っており、1254年にムンフ皇帝がカラコルム首都に仏教、キリスト教、イスラム教の代表たちを招集し、世界歴史上初の理論討論会を開催していた。
1235年に帝国の勢力、繁栄の象徴として“完全なる平安”という宮殿を建造、カラコルムはさらに威厳を放ち、モンゴル帝国首都の存在を誇示するようにとなった。大皇帝の「完全なる平安」宮殿の前にパリの熟練工ギロームボシェが建てた銀の木があった。国家的な宴会、祭りのときは仕掛けを動かすと頭頂部での天使が笛を吹き、その木の四方からお酒、ワイン、馬乳酒などの4種類の美味しい飲み物が流れ出ていた。これは1254年にフランス王ルイ9世によりモンゴルに派遣された僧侶ルブルックがムンフ大皇帝に謁見する際に目にした光景である。
カラコルムの都市建設にはモンゴルの熟練工以外にフランス、イギリス、ハンガリー、チベット、ネパール、ペルシャ、中国、韓国などの国々より厳選された熟練工、建築家たちを結集して仕事に当たらせている。カラコルム市遺跡の発掘でファラオのマスク、アラビアのコイン、金属、皮革製品、武器、輸送機器などのほかに銅、銀、宝石で作った数多くの発見物が見つかった。これらの発見物を見るとカラコルムで金属作業開発は成功していたことを分かる。1260年にフビライ皇帝が首都を北京に遷都した。その後、1380年と1410年に中国の明軍がカラコルムを攻撃し、カラコルムを完全に崩壊された。